未来へ繋ぐ

沖縄県 上間 優美

小学生の頃から、慰霊の日が近づくと毎年のように学校で戦争体験者の講話を聞く機会があります。私の九十代の祖母も、私が幼い頃からよく戦争の体験談を聞かせてくれます。辛くて耳を塞ぎたくなるものばかりですが、それらを聞けば戦争を理解したつもりになってしまいます。しかし、祖母は、「あんたにこんな話をしても、おとぎ話にしか思えないはずねー」とぽつりと呟くことがあります。その言葉が私の胸に突き刺さります。戦争を経験したことのない私は、その時は恐ろしさを感じていても、日常に戻ればすぐに忘れてしまうのが現実です。私はこれまで、座って聞いていた戦争の話を遠くの「過去」の出来事としてしか受け取っていなかったのです。
しかし、それは本当に遠くにある「過去」なのでしょうか。ある日、それがより近くに感じられる出来事がありました。学校帰り、小高い丘で屈んで戦没者の遺骨を収集している人を見かけたのです。素手で優しく土を払う姿に、命の重さを感じました。彼らは今まで誰にも見つからず、地面の奥深くに眠り続けていたのです。七十年という長い年月が経っても、戦争の傷跡はいまだはっきりと残っているという事実を突き付けられました。「過去」は、決して終わってはいないのです。
そして、まだ先の見えない普天間基地移設の問題も無関係ではありません。今、移設先とされている辺野古で何が起こっているのかこの目で確かめたいと思い、私は現地へ足を運んでみました。
初めて見た辺野古の海は、青々と透き通り、太陽の光線で輝いていました。この海で、ジュゴンが海藻を食んだり、悠々と泳いでいる姿を想像しながらゲート前に向かいます。限られた行動範囲の中には年配の方が多く、急な斜面にも関わらず、朝早くから弁当持参で座り込んでいるようでした。どうして彼らは身を削ってまで辺野古移設に抵抗し続けるのだろうか。私は、疑問を残したまま、後日行われた県民大会に参加しました。
炎天下、大会が始まる頃には会場の外にまで人が溢れ、その数は三万五千人に上りました。やはりここでも年配の方が圧倒的多数でしたが、私の前の席には、孫達を連れて三世代で参加する姿もありました。右隣に座っていたおばさんが、冷えたリンゴを笑顔で分けてくれました。左隣に座っていたおじいさんは、遠くから一人でバスで来たそうです。最後には両側に座っていた二人と手を繋ぎ、声を張り上げ、県民の熱い思いが一つになるのを肌で感じました。この時、ここまで年配の方々が辺野古への基地建設に反対する意味がやっとわかりました。戦争を知る世代は、その悲惨さと、戦後の苦労を一番近くに感じています。この小さな島に、これ以上新たな基地を造らせてはいけないという、若い世代の未来を守るための必死の行動だったのです。私は、おじいさんやおばさんの手の温もりが忘れられず、今一度「過去」に向き合ってみようと思いました。
戦後七〇年目の慰霊の日、平和祈念公園を訪れました。歳のせいでこの場に来ることのできない祖母の想いを胸に、祖母の母親である曾祖母の名前を探しました。見つかった名前は、じりじりと照りつける太陽の下で干からびていました。刻まれた名前を指でなぞってみると、写真でさえ見たことがない曾祖母が、不思議と近くに感じられ涙が溢れてきました。優しく水をかけると、曾祖母の名前がいきいきしているように感じられました。その時までは、平和の礎はただ戦没者の名前が刻銘されているだけだと思っていたのですが、そのひとりひとりがこの世に生きていた大切な証なのだと気付きました。その瞬間、祖母の言っていた「おとぎ話」が、ほんの少しだけ現実に近く感じられました。
これまでは、受け身で聞いていた戦争の話でしたが、自らの足を動かし行動してみたことで、見えてくるものがありました。遠い「過去」が「現在」 さらには私達の「未来」の世代にまで繋がっているということです。同じ過去を二度と繰り返さないために、重い口を開き、過去の戦争体験を語って下さる方々の想いを、未来の世代へと受け継ぐ時が来ました。私自身も祖母が元気なうちに、体験談やその想いにさらに耳を傾けていくつもりです。そして、沖縄戦への理解を深めるため、当時の実態や歴史的背景をフィールドワークを通して学ぶことで、次世代に継承する方法を模索していきたいと思います。
これから先、私達は子や孫にどんな未来を残すことができるでしょうか。