神奈川県横浜市栄区飯島町489-1

第57回大会最優秀賞

昭和31年(1956年)から続く日本語による弁論大会です。

あなたとの「違い」

京都府 村山 勇暉

 それは、ある地方都市でのことです。一人地酒を楽しんでいると、ふと、隣から一枚の紙が差し出されました。「ここはよく来るんですか」と書かれた紙を男性が笑顔で差し出しています。それを見て私は、「いや実は、」と話しだそうとすると、男性はすぐさま自分の指で耳を指し、「聞こえないんです、書いて書いて」と口の動きと身振りで急かします。初めての事に驚き、戸惑いながらも筆談で会話を進めます。「僕も旅の人間でね」「京都はいいところだよね」「北海道で生まれたなんてうらやましい」声はなくとも、聞こえなくとも、アルコールの入った彼の表情や筆の走りから、まさに「饒舌」に私に語りかけるのです。
ひとしきり盛り上がり、いよいよ別れ、という時に、彼は私を引き止め、「連絡先を教えて」と走り書きました。偶然の出会いからいろんなところで多くの人と繋がっていく経験をしているなんてうらやましい、と思いながら連絡先を書いて渡すと、また、彼が一言書いて私に渡します。「ありがとう」そんな感謝の言葉が書いてあるのかと思いながら目を落とすと、そこには「大丈夫?みんな、よく間違えるから」と書かれていました。私は咄嗟に悟りました。おそらく、彼は様々な地でいろんな方と出会い、会話を楽しんでいるのだろうということ。そしておそらく、そこで出会った人々の少なくない人数が、笑顔で会話していようとも、故意か偶然か、「間違った」連絡先を教えてしまうということを。
ここからはあくまでも私の予想です。誤解を恐れずに言うと、おそらく、彼に連絡先を教えた人々は、書き間違えはしていません。わざと間違えたのです。声が出ないだけ、耳が聞こえないだけ、その違いでも、違いを持った人が個人的な領域に立ち入るのを嫌っているのかも知れません。彼もそれをわかっているようでした。しかしそれでもつながりを求めようとする姿勢に私は尊敬をしました。
彼なら許してくれるかも知れない、そんな思いで質問をしてみました。「失礼かもしれませんが、いろいろ不自由や不便もある中で、様々な方とお話ししていて驚きました。」そう書くと、彼は大きく手を振って、「ただ、耳が聞こえない、声が出ないだけですよ」と笑っていました。本人にとっては些細な違いが、相手にはことさら大きな違いとして感じてしまう。そこにすれ違いが生まれているのかも知れません。
私には、小さな後悔があります。それは、京都の大学生と中学生が被災地の料理を屋台として出す、という企画にお話を聞きに行った時のことです。その中には、障がいを持った中学生の子もいました。録音機器を持っていざお話を聞く、という時に、一人の子が録音機器を取り上げようとします。「くれや」「なんでよ」「ええやんけ」激しい言葉を使いながら、ものすごい目で睨みつけてきます。普通に考えれば、やんちゃな子。怒らないまでも、少し注意をしてあげなければならなかったのかも知れません。ですが、私にはそれができませんでした。少しの違いが私に「当然のこと」をさせるのをためらわせたのです。
違いを認めながらも、同じように接する。彼になんとなくはぐらかして間違った連絡先を教えるのではなく、「さすがに、ついさっき出会った人に連絡先を教えるのは怖いので」と、なぜ伝えられないのでしょうか。なぜ私は、どんな子であろうと、私を睨んでくる子に注意をできなかったのでしょうか。小さな違いから、対応までを変えてしまうと、大きな違いになる。その大きな違いに触れてはいけない。そんな風潮はないでしょうか。
金子みすゞさんは、「みんなちがってみんないい」と言いました。ですが、みんなが違えば、悪いところだってたくさんあるのです。違いという言葉でフタをして、美しさばかりを強調するのは、正解なのでしょうか。
彼と話をしていて、ひとつ質問されました。「君はみんなとお話しないのかい?」「まぁ、一人が好きなもんで」そう書くと、大きく笑って、「そんなんじゃ楽しくないよ、ほら、もっと話して!」と逆に言われてしまいました。あなたと私の違い、それは相手を知りたいと思う気持ちなのかも知れません。