経験し得ぬことを尊べば

 会社役員 千葉 佳織

はじめて子どもを授かりました。スタートアップ企業で代表を務める私が妊娠・出産すれば、組織の働き方が整い、社員の選択肢も広がるはず。私の妊娠は会社にとっても喜ばしいことだと思っていました。私は「絶対に妊娠を言い訳にせずに、仕事を全うする」と心に誓います。これまで四六時中、懸命に働いてきた自分のプライドを見せたかったのです。

しかし、妊娠から少し経つと、「つわり」と言われる食欲不振、吐き気、嘔吐などの異常状態に陥ります。残念ながら、私が引き当てたのは重い症状でした。常時2~3分おきに吐き気が湧き続け、毎日3~5度ほどの嘔吐する生活がはじまります。

平日の朝、薬を飲むために夫の手料理を口に入れるものの、その場ですぐ吐く。昼すぎ、話すだけで気持ち悪さが込み上げてきて、Web会議を離席して吐く。夜も吐き気が湧き続けて、涙ぐみながら目を瞑るものの一睡もできない。マンションのエレベーターの中ではうずくまり、電車を待つホームでの1秒1秒が苦痛で仕方ありませんでした。

災難なことに、私の場合は出産するまでの8ヶ月間、この状態が続きました。そして、気づけば仕事が手につかないほど状態が悪化し、入院を経験します。

病室の天井を眺めながら、情けなくて仕方ありませんでした。同時に、周りは私のことをどう思っているんだろうと不安になりました。「たかが妊娠でなんで仕事ができないの?」と、苛立ちを覚える人がいるのではないか、と想像したのです。

「やる気がないと思われることが怖い」私はパソコン越しに気持ちを社員に打ち明けました。涙ぐみながら吐露する私に、ある方はこういいます。「そんなこと誰一人思いません。無理はしないで、休んでください」私はその言葉を受け入れようと決意しました。

入院明け、私の仕事は見事に引き剥がれていました。チームは私の穴を埋めるように、仕事の進め方や役割分担を変え、新たな取り組みへ積極的に動いていました。私に向けられる視線はいつも変わらず温かなもので、皆が仕事をする様子はむしろ、休んでいた私を励まそうと活気立っていました。

私は会社の代表として、自らが先導を切って頑張ることが組織をつくる上で必須だと思っていました。しかし、リーダーだけではなく“全員が”最前列で会社を担う状態こそ強い、とはじめて実感したのです。この場を借りて、社員の皆様に心からの感謝をお伝えします。

今回、私が学んだこと。それは「経験しなければわからないことがある。でも、人はすべてを経験できない」ということです。

人の経験を聞いた時に、私達は自分の中で、その経験の重さを勝手に想像してしまいます。
そして、ときに、相手の経験を軽んじてしまうことがあります。とくに、自分は全くその経験をしたことがない場合や、自分も同じ経験をしているものの苦労をしなかった場合に、「軽んじた捉え方」というものが発生します。

実際に「そんなにつわりって辛いものではないでしょう」と、私も自らの経験を軽んじられたな、と思う瞬間はいくつかありました。悔しいけれど、仕方がないと感じます。なぜなら、かつての私自身も「つわり」というひとつの事象について、理解が足りておらず甘く見ていたからです。

どう頑張っても人の痛みを本当に理解することはできません。だからこそ、何かの困難や悩みに直面する人を見た時に、私の想像には及ばないのだ、と自らを省みてほしいのです。そして、その人の経験と心情を想像し、尊重しながら声をかけてほしいのです。

これは、全ての人に必要な考え方です。現代の「ライフスタイル」は多様です。結婚・離婚、不妊治療・流産、子育て・障害など。人によって試行錯誤したり、他者と比較し悩む領域は違います。だからこそ、人の経験を尊び、向き合うことを大切にしませんか。

出産を終え、仕事に復帰した今、娘の命の温もりは私だけではなく、周りの助けのおかげで存在することを実感します。今度は私が、経験し得ぬことを尊び、向き合える人でありたい。娘を抱き抱えながら、強く、そう思うのです。