「そっと耳をかたむけて」

北海道 戸田 智美

トントントントントン。 台所からリズムよく野菜を刻む包丁の音が聞こえてきます。その音を聞きながら食卓テーブルに座って、母に今日一日の出来事を話すのが私の習慣です。友達の こと、勉強のこと、時にはちょっとした相談事など、ややのんびりとした調子の私の話に笑顔でうなずく母。そのような母の様子を見るたびに、いつも私はとて も温かい気持ちになるのです。そんな私にとって、当たり前の日常がとても幸せなことであると気づいたのは、ある出来事がきっかけでした。
今年の2月、北海道で初めて開かれた幼稚園児を対象とした弁論大会。私は恩師の先生に頼まれ、ちびっ子弁士たちのお世話役としてこの弁論大会に参加しま した。大会当日、受付を済ませて席に戻った子どもたちのほっぺはどの子も緊張で真っ赤、見守っている親御さんたちも心配のあまりずっとそわそわしていま す。そんな中、ひとりの女の子が緊張に耐え切れなくなり泣き出してしまいました。このようなハプニングは想定していたものの、私はどう行動すれば良いのか わからず戸惑ってしまいました。―行かなきゃ、でもどうしたらいいの?―そのとき、一緒にお世話係をしていた先輩が女の子をそっと抱き上げてこう言ったの です。「大丈夫だよ。どんなお話をするのかな?教えてくれる?」と。
しばらくすると女の子は落ち着いたのか、かすれた声ながらもゆっくりと自分の弁論を話し始めました。先輩はうなずきながら、その様子を優しいまなざしで 見つめています。自分を見守ってくれる存在に気づいた女の子は、次第に笑顔を取り戻し、話し終えるころにはその瞳には不安ではなく、大きな喜びが映し出さ れていました。そんな二人の様子を見ていると私の中で幼いころの記憶がよみがえってきたのです。
私は小さいころからおしゃべりが大好きでした。なぜそんなに好きなのかというと、会話をすれば周りの人たちが自分の方を見てくれるから。14歳も年上の 姉、仕事や家事で大忙しの両親にママゴトや人形遊びを頼むことはもちろん、お手伝いをしようとしてもなかなかうまくいかず、私はときどき寂しさを感じてい ました。でも会話をしているときは、自分もちゃんと仲間に入っているような気がしたのです。お気に入りの絵本をひとりで読めるようになったことや、お父さ んが庭に植えていた苗が今日きれいに花を咲かせていたこと。聞いてもらえる嬉しさからか一度しゃべりだすとなかなか止まることはありませんでした。そんな 私の話を周りの人たちはしっかりうなずきながら聞き、嬉しいときはぎゅっと、辛いときはそっと抱きしめて思いを感じ取ってくれました。そして私はそのよう なことを重ねるたびに、新たな知識を得ると同時に会話の作用によって自分のことを理解してくれる人がいる安心感と、その人とのつながりを心の温かさで感じ るようになっていったのです。
私たちは社会という大きな輪の中で、常に他者と関わりを持ちながら生活 しています。そのつながりを作るのに必要なのがコミュニケーション。メール、電話、インターネットなどさまざまな伝達手段がある今、私たちは時間や場所を 選ぶことなくいつでも連絡を取り合うことが可能です。しかし一方で、家庭内や友人といった身近な人たちと顔を合わせて話す機会はどんどん少なくなっていま す。自分の声や表情よりも、液晶画面に映し出される文字や記号で気持ちを伝えることが得意な現代人。
人は言葉だけではわずか7パーセントしか思いを伝えることができないと言われています。表情、しぐさ、声の大きさといったものがそれにプラスされたと き、自分の思いを的確に相手に伝えることが可能になるのです。事実、弁論大会で泣いてしまった女の子も幼いころの寂しがり屋の私も、言葉だけでなく先輩や 家族から注がれる優しいまなざしや抱きしめられたことによって、喜びや安心感を得ることができました。コミュニケーションとは本来、文字や言葉のやり取り だけではなく、人と人との心をつなぐもの。つまり相手の気持ちを受け止め、また同時に相手もそのように自分の気持ちを受け取ってくれたと感じたときに、初 めて成立するものだと私は思います。そのためにはまず、自分から相手の話にしっかりと耳を傾けていることを伝えなくてはいけません。皆さんならどう表現す るでしょうか?私は相手の目を見つめ、うなずきながら聞くようにしています。うなずくといういたってシンプルな動作は「聞いているよ」、「ちゃんと気持ち 伝わっているよ」のサイン。そんな何気ないしぐさの積み重ねが周囲の人たちとの深い絆を育んでいくのだと私は思うのです。
自分の話をうなずきながら聞いてくれる人がいる大きな幸せ。その幸せをたくさんの人たちと分かち合うことができるよう、これからはもっと積極的に相手の話に耳を傾けることができる人になりたい。これが今の私の心からの思いなのです。