後世への最大遺物

横浜国立大学職員  有馬 優

「私とは、私と私の環境である」スペインの哲学者、オルテガの言葉です。環境とは、人だけにあらず。日本の伝統的自然観には、自然の恵みを享受し、自然と共に生きていくという考え方が根底にあります。そして、そのためには、自然の持つもう1つの側面とも、向き合わなければなりません。そう、災害です。いつ、どこで、どのように起こるか分からない自然災害。私たちは、いつだって、死と隣り合わせです。
 私は大学職員として、土木工学の教育に携わっています。ダムや堤防といった構造物の建設、それらの維持・管理、基礎研究、防災教育に至るまで、土木の仕事は幅広く、私たちの命に関わっています。学生さんや先生方との対話から学んだのは、「他者の命を守る」という意識です。それは、自分たちが生きている時代のみならず、その先の社会を見据えて作られた、橋や道路が物語っています。
 日本の発展には、宗教家が大きな役割を果たしたと言われています。遣唐使として唐に渡った僧侶たちは、建設の知識と共に、大乗仏教の「利他行」を学んで帰国しました。相手の利益を重んじる利他の精神が、日本の街、日本人の心を豊かにしてきたのです。人々のために尽くす。次世代のために尽くす。そのような心構えは、専門家だけではなく、私たち一人ひとりの防災意識にも重要です。防災には、共に助け合うと書いて「共助」という考え方があります。家庭の枠を超え、地域でも助け合う防災活動のことです。一般人にできる、利他の実践とも言えるでしょう。
 「共助」に繋がる利他の精神。皆さんはどう考えますか?コロナ以降、利他的な行為は、ちょっとしたブームになりました。オンラインでの贈り物。医療従事者への、感謝の気持ちのSNS投稿。それ自体は尊いことです。しかし、それが現代の利他であるとしたら、私たちは、何かを見失っていないだろうか。利他と共助の結びつきを考えるほどに、行き詰まりました。
 そんな折、地震工学をご専門としていらっしゃる、小長井一男先生にお話を伺いました。小長井先生は、災害に対する当事者意識を、通勤になぞらえて話してくださいました。毎日同じ道を通っていると、その道中の小さな変化を意識しなくなってしまう。でも、ぼうっと通り過ぎてしまう横で、実は困っている人がいるかもしれない。立ち止まって、一言声をかけてみる。そういった、見慣れたものに注意を向け、自ら一歩踏み出すことが、防災や減災に繋がるのだと。
 ふと、思い出すことがありました。見ず知らずの方々の助け舟です。木の下で雨宿りをしていたら、そっと傘を差し出してくれたお婆さん。雪の中、ベビーカーを押しながら歩く私に、駅まで付き添ってくれたサラリーマン。今思えば、その方々は見慣れた景色の中で、困っている私の姿に気づき、そして一歩を踏み出してくださったのです。小さな悪天候がもたらした、小さな困難。まずはそこに目を向けられるようになることが、大きな災害が起きたときの行動に繋がるのではないか。私はここに、共助の可能性を見出しました。つまり、一期一会かもしれない人にこそ、心を傾ける必要があるのだと。災害に遭遇したそのとき、馴染みのある土地、馴染みのある人と共にいるとは限りません。この会場だってそうでしょう。そのときたまたま居合わせた人に手を差し伸べる。利他の根底にあるべくは、見返りを求めない心。最澄の教えでは、本来の利他は、己を忘れることにあるとされています。今こそ、原点に立ち返るときなのではないでしょうか。
 専門家でもない私が、なぜここで、このような話をするのか、ご想像がつきますか。この7分も、下っ端の事務職員にできる、私なりの防災活動だからです。素人が多くを語ることはできないかもしれない。けれど、自らの手で、この声で、できることはあるんです。ちょっとした勇気で守れる命が1つでもあるのなら、私は行動したい。本当に苦しいときこそ、誰も見ていない場所でこそ、目の前の人に心を寄せる。私は、ここにいらっしゃる皆様と共に、そのような生涯を目指したい。私たち市民の小さな勇気は、巡り巡って、誰かの命を守り得るのだと伝えたいんです。
 真に利他的で在ることは非常に難しい。利他的で在ろうとする志さえ、利己的な願望かもしれません。それでも、この災害大国の行く末は、私たち1人ひとりが、生身の人間としてどう生きていくか、そして、何を後世に遺していくかにかかっている。私はそう確信しています。だからこそ、まずは利他の精神を見つめ、継承していきませんか。例え明日、大災害が起きようとも、「共助」の一歩を踏み出せるように。