「今、マスクの奥をのぞけば」

水嶋恵利那

今、私の視界に、口は1つも見えていません。世界中の人々にとってマスクで口を覆い隠すことが常識となりました。
そんな中、マスクをせずに世間から非難を浴びた人たちがいます。テレビの向こう側の、手話通訳士。喋りを瞬時に手話に訳し、ろう者、耳の聞こえない人に話の内容を伝える人たちです。
記憶に新しい東京オリンピックの閉会式。映る手話通訳士を見て世間からは「真夏なのに黒い長袖を着ていて暑苦しい。見る人のため爽やかな服装をすべき」など、様々な意見が寄せられていました。一番見受けられたのは「手話通訳士がマスクをしてない!このご時世のオリンピックで不適切だ!」
私はこれを見て、驚き、悲しみました。
意見を受けたこれらの事情には、理由があります。手話は単純な手の動きだけで言葉を表現すると思われがちですが、実は口の動きや表情、全身の動きを使って、意味を表現するものなのです。例えば「好き」という意味の手話。動きはそのままに口を「希望」と動かすと「したい」という意味になります。このように、手の動きと同じくらい口や表情に意味があるため、手や全身の動きが分かりやすい黒い長袖で、そして顔を見せて表現する、という深い配慮がされたのです。
私は喋ることのできない障害のある叔父と育った影響で、少し手話ができます。叔父が何を考えているのかわからず、想像するしかない毎日の中で、小学生の時手話に出会いました。叔父は手話もできませんでしたが希望を感じて、学校に手話クラブを立ち上げ勉強を始めたのがきっかけです。だから私は手話通訳の人を見てマスクをしない理由ももちろん理解できました。そして感染リスクも0でない中でろう者に情報を伝えていたこと、ろう者が今、マスクの中を想像するしかない不安な毎日を送っていることを心配しました。
今、SDGs制定をきっかけに世界で障害者の社会的強化が謳われていますが、日本の目標達成は遠いとされています。それはそうでしょう。手話通訳の命がけの仕事が健常者から攻撃されて当たり前の社会です。なぜでしょうか。
手話通訳士がマスクをしない理由がわかったという人も中にはいるのではないかと思います。その人にあるもの、それは「知っていた」という知識、または「何かろう者の事情があるのかもしれない」という創造力です。視聴者が不快にならないように、感染が広まらないようにと正義感と優しさを持った上で、知識と創造力が足りず無意識にろう者を傷つけた人が恐らく大勢います。
知識と創造力、この2つを得ることが、本当の意味で優しい社会になるために必要ではないでしょうか。
手話は日本語の代わりではなく、1つの独立した文化です。今回の東京オリンピック開会式では、その場で健常者の通訳士が訳した手話を、ろう者の通訳士が見てよりネイティブな手話に訳すということが行われました。これほど独自の文化であるため、間違った手話を使われたくないと、健常者が手話を使うことをよく思わないろう者の方も多くいます。
文化を守るため、その気持ちは尤もですが、ろう者の方も健常者が文化を壊そうとしているのではなく、理解するために知りたいのだと知って、学ぶことを許していただきたいのです。
私があるとき友達とふらりと入った飲食店は、なんだか他のお店とは違いました。私が注文をしようとすると、お店の方が「あなたは口話と手話どっち?」と私たちに聞くのです。そこはろう者と健常者が一緒に働く、手話が公用語のお店だったのです。そこでは、ろう者も、手話を知らない健常者の方も食事を楽しんでいます。ろう者のスタッフさんは「伝えたいという気持ちがあればいい」と、友達にも手話を教えてくれました。
ろう者か健常者どちらかのためでなく、どちらもいて当たり前なお店。こんなお店が少しずつ増えています。
手話が公用語のお店、手話通訳のように、健常者とろう者が共にあれるバリアフリーを増やし、理解へのきっかけをたくさん作っていくことが重要です。
オリンピックの手話通訳は批判もあった一方で、手話ってこんなに表現豊かなんだ!どんな意味か調べてみよう!と、ろう者に向けたはずの手話が健常者の興味や理解を深めることにも繋がったのです。
健常者の手で、透明なマスクも開発されています。私もできることを探し、今年住んでいる区の多文化共生委員として活動し、より実効的な条例作りに取り組みました。その甲斐あって、大手企業の主催するイベントで手話通訳を取り入れてもらうことも叶いました。小さく、確かな一歩だと思います。
私たちは1年半も、障害のあるなしに関係なく、未知のウイルスについて必死に知識を得て、見えなくなった他人のマスクの下を想像しながら生きてきました。ただ不自由で終わってはもったいない。今こそ養われた当たり前でないものを知る力と創造力で、マスクを外せる頃には、誰も傷つかない世界を作りませんか。