神奈川県横浜市栄区飯島町489-1

第54回大会最優秀賞

昭和31年(1956年)から続く日本語による弁論大会です。

「私は戦う」

北海道 川瀬 幸奈

2004年5月27日イ ラクのバグダッド付近マハムディヤで一人のジャーナリストが凶弾に倒れました。橋田信介さん。享年61。日本の戦場報道の第一人者として活躍した橋田さん でしたが、イラク戦争取材中甥の小川功太郎さんとともに武装グループの襲撃に遭い、還らぬ人となりました。
カンボジア内戦に始まりパレスチナ内戦、アフガン戦争など、多くの戦場を経験し、カメラを通してその地の状況を伝え続けた橋田さん。常に世界で一番危険 といわれる地を自らの意思で選択していたため、時には空爆を受ける地上側から取材をすることもあったそうです。
橋田さん死亡のニュースを、私はタイのバンコクで呆然としながら見ていました。当時私は中学一年生。父の仕事の関係で小学校三年生からバンコクに住んでいました。
橋田さんはタイを愛し、生活の拠点をバンコクに置いていました。私はその姿を、よく日本人が利用するスーパーで目にしました。スーパーの向かいにある喫 茶店は橋田さんお気に入りの店で、買い物に行くと毎回のように同じ席でコーヒーを飲んでいるのです。いつも穏やかな顔で微笑んでいたのがまぶたの裏に焼き 付いています。
その橋田さんが突然亡くなったと報道された時、私は命がけの仕事という言葉の意味を、心の底から理解しました。
そしてそのニュースが流れている間、私の母は泣きながら「これがパパだったら…。」と呟きました。そしてその時初めて、私は父の仕事も死と隣り合わせの危険な仕事であるということを知りました。
私の父はNHKの報道カメラマンをしています。バンコク支局に駐在していた時は、半年以上長期出張に出ることも珍しくありませんでした。私はその出張先 がイラクやアフガニスタンであったことは知っていましたが、国境警備隊に拘束されたり、銃声で目を覚ましホテルから必死に逃れたりしていただなんて全く知 らず、その時母の口から初めて聞いたのです。私は戦場に向かい、毎回笑顔で帰宅する父を見て、「なんだ、大丈夫じゃないか」と思い込んでいたのです。
この時から私は何故彼らは父は自分の命の危険を知りながらも仕事を続けるのか、疑問に思い始めました。そして長い間答えが見つからなかったその問題は2年前偶然見たテレビ番組が答えを教えてくれました。
その番組は 内戦が続いていたアフリカの国シエラレオネで一人の日本人男性が国連のメンバーとして両勢力を武装解除させた、というものでした。しかもそれは武力を全く 行使せず話し合いでのみ行われたものでした。彼の名前は伊勢崎賢治さん。突然現れた外国人に現地の人間がすぐに気を許すはずもなく、伊勢崎さんは同僚の犠 牲など多くの困難を乗り越えて最終的に武装解除に成功したのです。
橋田さんや父のように、報道に携わる人々が死と隣り合わせの危険を冒しながら撮影した映像。それを海を越えた地で目にした人々がこの地で苦しんでいる 人々のために何かできれば、と行動を起こしたとしたら。伊勢崎さんが武装解除をしなければ、更に犠牲者が増えていたであろうシエラレオネのように、たった 一人の行動でも多くの人の命を救うことになるのです。
私が今まで生きてきた17年間。世界中から戦争が根絶された日は、一日として存在しません。そしてこれから先も、解決は難しいでしょう。宗教的な対立やテロ、少年兵が戦いを続けている現状がそれを物語っています。
今まで私はテレビで流れる映像をただ見るだけで、そこから何も行動を起こすことができない人間でした。ですが、これから私は自分で選んだ大学を目指し外 国語と政治学を学び、大学卒業後は、国連職員になりたいと思っています。そして、国連平和維持活動に参加したいのです。
橋田さんや父、伊勢崎さんが教えてくれた自分にできる精一杯の方法で、一つでも多くの命を救うこと。世界中で今も苦しんでいる人々のため小さなことでもいい、私にもできることが必ずあるはずです。次は、私が平和のため世界中で戦う番です。