神奈川県横浜市栄区飯島町489-1

第52回大会最優秀賞

昭和31年(1956年)から続く日本語による弁論大会です。

「感謝のバトン」

北海道 二木 緑葉

ある神経系の病気を抱えた患者が、病状とは全く関係のない、脱水症状で倒れました。搬 送された先で目を覚ますと、手足に麻痺があり、どこへ行くにも介護を必要としていた彼女は「私がトイレに行くと皆に迷惑が掛かるから、水分を摂る量を減ら していたの。」と告げます。その後の医師の言葉を、私は忘れることができません。「それが、社会なんじゃないのか。君は今確かに、周囲の力を借りているけ れど、君からも与えられるものが、必ずある。それが僕たちの生きる社会なのだから。」
それから患者は、家族や友人に支えられた闘病生活を、日記に綴り発表していきます。「今の自分にできることをしよう。」その一心で書かれた日記の最後の行は『ありがとう。』
手も足も動かなくなり、口でペンをくわえて書いたガタガタの文字。それは、周囲の力のお陰で、彼女がどれだけ強く生きたかを物語っているようでした。
彼女の死後、遺族のもとには、日記を読んだたくさんの人から手紙が寄せられました。それらに決まって書かれているのは「ありがとう」の文字。
患者の日記は、いつの間にか多くの人に、生きる希望と強さを与えていたのです。「今は周囲の力を借りているけれど、与えられるものが、必ずある。」医師の言葉が証明された瞬間でした。

このように、人は気付かぬところで、互いに寄り添いながら生きている。個人の行った小さな行為が、大きな社会の中をめぐりめぐって、忘れたころに形を変えて、その人のところに戻ってくる。感謝というのは、そんな大きな輪をめぐるバトンのようなものだと、私は思います。

しかし、こんな風に考えられるようになったのは、つい最近のことでした。
小学生のころから国際協力に興味があった私は、中学3年のとき、友人たちに呼びかけて活動グループを結成。以来、勉強会やバザーなどを行い、地道ながらも、社会問題に対する自分たちなりのアクションを起こしてきました。
特に、高校1年と2年の夏に開催した「被爆ピアノリサイタル」と題したチャリティーコンサートのことは、まるで昨日の出来事のように覚えています。62年前、広島に原子爆弾が投下されたときに、爆心地からわずか2キロの地点にありながらも生き残り、現在も音を奏でる奇跡のピアノ。それを札幌に呼び、自分たちの手で資金調達やチケット作りまでを行い、戦争の悲惨さを伝えるコンサートを開いたのです。2回の公園で、合計600名の方が会場に足を運んでくれました。 これらの活動で最も感動的だったのは、そのすべてが、理解ある人の善意で成り立っていたことです。コンサートの出演者も、全員が無償で舞台に立つことを引き受けてくれました。自分が呼びかけたことに、多くの人が力を貸してくれる。そんな実感が、最初は確かな幸せでした。

しかし、活動が大きくなってくると、単に嬉しいと感じるだけでない、別の感情が芽生え てきました。それは、感謝へのプレッシャーです。イベントを行うたびに、来てくれてありがとう。手伝ってくれてありがとう。募金をしてくれてありがと う・・・。何百回、感謝の気持ちを表さなくてはならない場面に出くわしたでしょう。すると、力を貸してくれた人々に、何らかの形でお返しをしなくてはとい う義務感が、だんだんと私の中で負担に変わっていったのです。そしてついに、活動から距離を置こうと決めました。

今思うと、そんな義務感は、感謝のバトンと、それがめぐる大きな輪の存在を認識できずにいたために、生まれたのだろうと感じます。それを気付かせてくれたのは、一緒に活動してきた仲間たちでした。
「あなたがいたから、活動を始めようと思った。新しい世界を見せてくれて、ありがとう。」それから、ある被爆者の方からのメッセージも、私の心に強く響きました。
「若い人たちは、戦争のことをなかなかわかってくれないと思っていたの。だから、あなたのような存在は、とても嬉しい。ありがとう。」
あの頃の私は、感謝を表す場面にあうと、その場で恩返しに必死になっていたのです。けれど、感謝は巡るもの。私は別の誰かから感謝のバトンを受け取ることで、義務感なんて感じなくていいのだと、やっとわかることができました。

あの日記を残した患者さんと周囲の人々のように、きれいな支え合いの輪ができるまでには、きっと多くの時間が掛かるでしょう。しかし、私もこれからは、自分が活動を通じて得た経験を伝えることで、感謝のバトンを渡してゆくリレーの走者になりたい、そう思っています。